休暇まで、それまで以上に執務量が増えたせいか、その日を迎えるまではあっという間だった。

 いよいよ出立の朝となって、クリスは軽装に帽子を被り、腰に愛剣を帯びた姿でサロメの前に立っていた。
 ブラス城の裏門から森へと続く道の端で、クリスは自らの馬を曳いている。
 日が昇って間もない早朝であり、城門の開門までにはまだ暫くの時間があった。
 裏門の前に立つ衛兵の目を避け、クリスは私室から繋がる地下通路を使って城外に出て、馬を用意して森の入り口で待機していたサロメと落ち合ったのだった。
 今回の休暇を、クリスとサロメは評議会への出向を兼ねた巡察と皆に説明していた。ビネ・デル・ゼクセに向かう道すがら、村や街に立ち寄って人々の様子を視察するのだと言ってある。
 それは全くの嘘ではなく、クリスはイクセの村を出た後、実際に評議会で行なわれる会議に出席する予定だった。
 それまでは単身で行動すると言った途端、ボルスが供を名乗り出てきたのだが、サロメは何とかボルスを押さえ込み、クリスは幾らかの罪悪感を感じつつも、本当のことを言えなかった。
 実際の目的を伏せるのは、やはりクリスが休暇の理由を皆に言うのが気恥ずかしかったからだった。
 それに、クリスがお忍びとはいえ、独りで城外へ出ると噂が広がれば、道中での危険が増す恐れもある。
 そんな事情もあり、サロメはクリスの「巡察」の口外を皆に禁じた。クリスの外出は、こうして人目を避けるものになったのである。
 秋の気配が濃厚に漂う朝もやの中で、クリスはひらりと馬に跨り、馬上からサロメを見下ろした。
「じゃあ、後は頼む」
 サロメはクリスを見上げ、首肯した。
「もしもの場合は、鳥をお使いください。お傍を離れぬよう飛ばせておきます」
 頭上高くを舞う鳥の影を見上げて確かめ、クリスは頷いた。
「そんなに用心しなくても、大丈夫だと思うけれどな」
 言いながら、軽く馬を歩かせる。離れ始めたクリスの姿を、サロメは表情を緩めて見送った。
「お気を付けて」
 サロメの声に片手を挙げ、クリスは前を向いて徐々に馬の足を速めさせた。
 久々の遠出が嬉しいのはクリスだけではないらしく、愛馬も生き生きと足を使っているのがクリスにも伝わってきた。
 小さく微笑を漏らし、その歩調に体の動きを合わせてやると、愛馬は喜んで一層足を速めた。
 クリスは肩越しに後ろを振り返り、その場に佇んでクリスを見送っているサロメの姿が既に遠くなりつつあるのを見出して声を投げた。
「すぐに戻る!」
 それに対してサロメは軽く手を振っただけで何も返してはこず、クリスもそれきり後ろを見ることは止めて、一気に速度を上げて森の中を駆け抜けた。


 見る見るうちに遠ざかるクリスの後ろ姿を、森の枝が隠してしまうまで、サロメはその場から動かずに見つめ続けた。
 完全に姿が見えなくなると、やっと踵を返して、城の方へと向かう。
 クリスを行かせても良かったのか、つい今しがたの躍動感に溢れた背中を思い返して、サロメはここ数日の懸念が再び揺り動かされるのを感じていた。
 クリスに、かの男の許を訪れるように勧めたのは他ならぬサロメである。
 主がそれを無意識であれ、そう望んでいることは随分以前から承知していたことだった。
 しかし情勢が安定するまでは、騎士団長たるクリスが席を離れることは許されることではなく、その意思を知りつつも、サロメは口に出して指摘してこなかった。
 今回、報告書にイクセの村のことを載せて、更にびっしりと詰まったクリスの予定表から数日間の空白を無理に作ったのは、それが避けられないことだと、サロメは悟っていたからだった。
 やっと国内の情勢が安定したこの時期を逃せば、逆にクリスはその存在感を増して、より一層個人的な外出など敵わなくなるだろう。
 そういった外的事情と、――クリスの心情がかの男のほうへと向いているという事情とがあった。
 その気持ち自体は、何の問題もない。
 サロメにとって無視できないのは、ゼクセン騎士団長であるクリスが、現在は平野の民となった男の許に向かい……どんな結末を迎えるのかという疑問だった。
 あり得ない、と理性が全てを否定しても、どうしても小さな懸念を消すことが出来ない。
 それはサロメが騎士としてのクリスを熟知していても、鎧を脱いだ彼女の全てを知っているわけではないということから来る不安だった。
 騎士団長である前に、クリスは花の盛りを迎えた一人の女性だった。
 それが、今回の旅にどんな結びを作るのか――考え過ぎと分かっていても、サロメは物思いを振り払えずにいた。
 止めよう、とサロメは息をついて思考を打ち切った。
 既にクリスを送り出してしまっている。
 それは、サロメが騎士団長としてのクリスを信頼した結果だった。
 今はその選択を信じるしかない。
 これからクリスが不在の間、サロメは軍師として、塵ほども不安を見せずに騎士達をまとめていかなければならないのだ。
 余計な思考は不要だった。
 背筋を伸ばして、サロメは城門に向かった。
 クリスが向かっている、イクセの村とは反対の方向へと、歩みを進めてゆくのだった。


                        ・・・NEXT・・・


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